January 2012
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http://tsuzuru-hibi.jugem.jp/?eid=101 →
「良いプロジェクト(デザイン)とは、自分たちの功績を後世に残そうと
する野心から生まれるのではなく、あなたたちがデザインをした物を
使うことになる見ず知らずの人々とほんの些細なことでもいいから
経験を取り交わそうという、その気持ちから生まれるのです。」
『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン 多木陽介』
より
December 2011
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あらゆる縮小模型は、現実に実在する巨大な物体に対してメトニミー(換喩)的操作を施すことで製作される映像であるといえる。ミニアチュールにとって重要なことは、それが起源となる物体を模倣しながらも、その本体が属している現実世界から完全に遮断され、外部と内部の境界を厳密に維持していることである。この隔離が前提となってこそ、それを手にする者は、現実とは別の秩序を持つミニアチュールの空間に遊び、我を忘れることができる。なるほどミニアチュールは起源となるものと比較すると、縮尺においてははるかに小さい。にもかかわらず(あるいは、それゆえに)それが体現する全体性の観念は強固であり、多くの場合、起源をはるかに凌駕している。
~スーザン・スチュアート 『憧憬論』
November 2011
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October 2011
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物分りのいい人は自分を世の中に適合させる。わからず屋は自分に世の中を適合させようと頑張る。
だから、全ての進歩はわからず屋のおかげである。
―バーナード・ショウ/...
– 名言は~わ (via petapeta)
植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、論理と適合性に一致し、その原始の力で最高の芸術的な形を達成する
~Karl Blossfeldt
asada's memorandum: ゴッホの本当のすごさを知った日 →
asada0:
先日、北海道カラーユニバーサルデザイン機構(北海道CUDO)のイベントで、「色覚体験ルーム」というのを経験した。特殊な分光特性を持つライトに特殊な光学フィルタを被せたものを照明として使用しているその部屋の中では、一般型の色覚の人でも、P型(1型)やD型(2型)色覚の人と同様に色が見えてしまうのだ。つまり、特定の色の組合せにおいて、色の区別がつかなくなってしまう。こんなすごいものをよく作れたと思う。その部屋の中でいろいろなものを見たが、裸眼で色覚体験を行うのは、シミュレータを使ってディスプレイ上で見るのとはまた違った臨場感がある。貴重な体験だった。
部屋の中に…
プロジェクトを行ううえで 私は4つの要素を重視しています。 1つ目は、やはり「クリエイティブ」。 いかにいいものがつくれるか、というところ。 2つ目は、「人」です。 ショーをつくるうえで人は欠かせない要素ですから、 ビジネスパートナーやスタッフを含めて、 きちんと「人」に焦点を当てて 考えられているかということ。 3つ目は、やはり、たくさんのお金が動きますから、 「財政面」で問題がないかということです。 そして、4つ目は、このショーをつくることで、 「社会的によい影響があるか」ということです。 極端にいえば、これがすべて満たされなければ、 私はそのプロジェクトをやる意味はないと思います。
~ギー・ラリベルテ
http://www.1101.com/cirque_de_soleil/guy_laliberte/2010-01-25.html
美には傷以外の起源はない。深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。 ジャコメッティの芸術は、どんなモノにもあるこの秘密の傷を発見しようとしているように思われる。 孤独の、至高の壮麗化であり、孤独は悲惨でなく、むしろ秘密の王国であり、深い伝達不可能性であり、多少とも晦冥な認識である。 ~ジャン・ジュネ
私はこんな奇妙な印象を受ける、つまり彼がそこにいると、それに触れなくとも、すでに完成された古い彫像たちは、変質し変貌する、なぜなら彼は彫像たちの姉妹のひとりにいま取りかかっているからだ。しかも一階にあるこのアトリエはいまにも崩れ落ちようとしている。アトリエは虫食いだらけの木で、灰色の埃でできており、彫像は石膏製で、綱、麻屑、あるいは針金の切れ端が見えている、画布は灰色に塗られ、それが画材屋にあった頃にもっていたあの落ち着きをとっくの昔に失ってしまった、すべては染みだらけで、廃品同然だ、すべては不安定で、いまにも崩れ落ちそうだ、すべては分解に向かっていて、浮遊している。ところで、そんなすべてのものが、ある絶対的実在性のなかでつかみ取られたかのようなのだ。私がアトリエを後にして、表の通りに出ると、私を取り巻くものはもはやなにひとつ真実ではない。こう言うべきだろうか。このアトリエで、ひとりの男がゆ...
September 2011
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セクシュアリズムみたいなものが今あまり元気がないと仮定するなら、それは多分、ある種、魔術みたいなものだった、つまりメルティングポットの中で未分化でドロドロしていた性というものが、フェティシズムというアーカイヴと、家族愛という全く性愛とは異なる一つの純愛みたいなものに、明確に分かれてしまったためだと思うんですよ。 これら、つまり純愛と性愛、フェティシズムといったものが未分化にグジャグジャに混じっていたもんじゃ焼きみたいな状態っていうのが歴史的には長くて、ほとんど20世紀の中盤ぐらいまではそうであったわけですが、段々と分化され、更にはインターネットの台頭によってその分化が一挙に加速し、また情報が爆発的に増えたわけですよね。共有アーカイヴが拡充して、今ではフェティシズムが選び放題、少なくとも視聴覚レベルではそうなったわけです。...
踊りとは命掛けで突っ立った死体である
~土方巽
「私は何かを“治療する”芸術家ではなく、私の映画は解決や方法を示唆したり、イデオロギーを述べたりするものでもない。私がやっているのは、自分に起こるできごとの目撃者...
– (via stilllll)
August 2011
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ずっと、自分は音楽には入り込めない、音楽がこっちを向いてくれない、と思い込んでいた。いや、音楽のもってくる感動があまりに純粋で、言葉にも色にも形にもすることができないのを、ひたすら恐れていたのかもしれない。言葉の世界に近づけば近づくほど、音楽からは遠ざかった。
~須賀敦子『ヴェネツィアの宿』
盗むことなしに、盗むに値するものを手にすることができようか
~『鏡の影』佐藤亜紀
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