我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間関係の、なくてはならない中心になるのである。女はチャールズ・モーガンが言う、『回転している車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂』を得なければならない
~『海からの贈物』 アン・モロウ・リンドバーグ
建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱えている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。
~『戦う操縦士』 サン・テグジュペリ
大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから
〜サン・テグジュペリ
さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともになれ、だろうし、フランス語のアデューの、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。
~『遠い朝の本たち』須賀敦子(アン・モロー・リンドバーグのことば)
私は、自分がもうすぐ死ぬと知ってはいるよ、ぺテール、だけど理解できないんだよ。一つの死体、姉の死体だけですむところに、二つ目の死体、私の死体が出るわけだよね。でもいったい誰が、二つ目の死体を必要としているんだい?神かと思ってはみるけれど、そんなはずはない。神は、われわれの肉体なんかに用がないからね。社会かね?社会は、私を生かしておいてくれたら、誰の利益にもならない死体をもう一体よけいに得るかわりに、一冊もしくは数冊の本を得ることになるだろうに。
~『ふたりの証拠』 アゴタ・クリストフ
ただ眼に観えるだけのものは、風景ではない。風景を観させるものは、感覚と化した巨大な記憶である。
〜前田英樹
松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へと、師のことばのありしも私意をはなれよといふことなり。この習へといふ所をおのがままにとりてついに習はざるなり。習へと言ふは、物に入りてその微の顕で情感るや、句となる所なり。たとえ物あらはに言い出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、物と我二つになりてその情誠にいたらず、私意のなる作意なり
〜『三冊子』